日本三大名城>名古屋城、姫路城、熊本城
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最終更新日:2016/07/08
歴史
日本三大名城というのは、日本を代表する3つの城という意味ですが、時代や定義によって選ばれる城はそれぞれ異なっています。なお、三名城には将軍徳川家の居城である江戸城を含まないものがありますが、その場合は江戸城を別格として扱っています。
いつの時代でも権力は恐ろしいものですが、時代が時代だけに下手なことをいうと命が危なかったのかもしれません。
まず城郭、つまり城全体の規模の大きさを基準にして選ばれた三大名城として、江戸城、名古屋城、大阪城の3つが挙げられます。
そして、設計者で選んだ三名城として、名古屋城、大阪城、熊本城が挙げられています。
これは、荻生徂徠が著作内で語ったもので、江戸時代初期に城づくりの名手といわれた加藤清正、藤堂高虎が建設を指揮した城之内、とくに機能美あふれるものとなっています。
1665年の三大名城は、天守の規模を基準として江戸城、姫路城、熊本城が選ばれています、当時は大阪城の天守が焼失しており、その代わりに姫路城が選ばれたといわれています。
そして、2008年の日本名城百選では、大阪城、熊本城、江戸城が選ばれています。
名古屋城は4位、姫路城は7位となっています。
では、これまで挙げられた城のうち、現存、再建問わず天守があり観光地にもなっているものについて、ご紹介します。いずれも、私達が「城」といわれて真っ先に思い浮かべるほど、よく知られたものです。
愛知・名古屋城
尾張名古屋は城でもつ、といわれますが、愛知県名古屋市の象徴的な建造物であり、金の鯱でもよく知られているのが、名古屋城です。
その起源は16世紀の前半に今川氏親が築いたもので、1532年には織田信秀が奪取、織田信長はここで生まれたといわれています。しかし、信長が清州城に移ってからは廃城となっていました。
1609年、周囲一帯の中心地であった清須は水害に弱いことなどから、徳川家康により名古屋城の建設が決定、翌年より工事が始まり1612年に大天守が完成しています。
とくに、天守台石垣が加藤清正により築かれたことがよく知られています。尾張藩藩主の徳川義直は清須から移住する歳、家臣町人だけでなく、寺社や清洲城の小天守までも名古屋に移動させています。
以後、名古屋城は徳川御三家のひとつ、尾張徳川家の居城として使われていました。
明治時代になると、一時は破棄されかけますが、山県有朋の決定により姫路城とともに保存されることになりました。1930年に名古屋市の所有となり、一般公開されています。
また、建造物と本丸御殿の障壁画が国宝(旧国宝)に指定されました。
しかしながら、戦時中に空襲により焼失。疎開させていた障壁画と、一部の建造物のみが江戸時代以来のものとなります。
戦後になり、鉄筋コンクリートで再建されたのが、現在ある名古屋城となります。
兵庫・姫路城
姫路城は別名を白鷺城ともいう美しい城です。江戸時代以前に建設された天守が残っている城を現存12天守といいますが、姫路城はそのひとつであり天守などの主要建築物が現存しています。
そのため建物の多くが国宝や重要文化財に指定されています。また、内堀の内側が姫路城跡として国の特別史跡に指定されているほか、ユネスコの世界遺産にも登録されています。
姫路城の起源は1346年の赤松貞範によるものとされていますが、当時は小規模な砦のようなもので、城らしい規模となったのは黒田官兵衛の祖父・父としても知られる黒田重隆・職隆からという説があります。
戦国時代には山陽地方の交通の要衝として本格的な城へとつくり変えられ、関ヶ原の戦いのあとに城主になった池田輝政の手により、姫路藩の藩庁として現在の形になりました。
明治時代には陸軍の駐屯地になって多くの建物が破壊されましたが、山県有朋の決定により主要建築物が国費で保存されています。
戦時中に姫路も空襲にあいましたが、姫路城は奇跡的に焼失することなく、現代にその姿を留めています。
熊本・熊本城
熊本城は熊本市中央区にある城で、別名を銀杏城といいます。
その起源は中世の千葉城と熊本城で、江戸時代初期に加藤清正がそれらを取りこむ形で熊本城を建設しました。加藤清正は築城の名手として知られ、この熊本城の建築様式は「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれ高く評価されています。
加藤家取り潰しののちに細川家の居城となりますが、元の形をほぼ留めていました。しかし明治時代には陸軍鎮台が置かれたことで手を加えられ、西南戦争によりほぼ焼失しました。加藤清正の手による石垣は1889年の自身で一部崩落したものの、ほぼ江戸時代からの痕跡を留めています。
戦後、天守の外観が復元され、近年では主要な建築物を木造で復旧する事業が進んでいます。
また、熊本城は桜の名所としても知られています。
大阪・大阪城
大阪城といえば豊臣秀吉のイメージがありますが、秀吉の大阪城は大坂夏の陣により豊臣氏滅亡とともに焼失しており、今に痕跡が残るものは江戸幕府の手により城跡を埋め立てたうえで再建されたものです。
また、主要な建物はほとんどが幕末に焼失しており、天守閣は昭和初期に復元されています。
1615年、徳川家康は豊臣氏を滅ぼすと、孫に大坂城下の復興を課しました。その後、大坂は幕府直轄地となり、1620年から徳川秀忠の指揮により、豊臣家のイメージを払拭する新しい大阪の象徴として、大坂城が再建されました。
以後、大坂城の城主は将軍自身となり、城代が派遣され管理されてきましたが、度重なるせ火災や落雷で消失し、1655年には天守を持たない城になってしまいました。そして、幕末に動乱により完全に消失します。
明治時代には陸軍用地となり、1928年から昭和天皇即位記念事業として天守の復興開始。戦時中には空襲により甚大な被害を受けます。戦後には一時占領軍に接収されますが、返還後は復旧され、大阪城公園として整備され現代にいたります。
現代の天守閣は鉄筋コンクリート製で、耐震補強やエレベーターの設置などの改修が近年になっておこなわれています。
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