日本三大山城>岩村城、高取城、松山城

公開日: : 最終更新日:2016/07/08 歴史


城というものはもともとが軍事施設ですので、戦いのために必要に応じてつくられています。
そのなかで、山の上につくられた城を山城といいます。
山の上に城をつくるのは、防衛上有利だったからです。

山は高いことから周辺を見渡しやすく、敵の動きがわかりやすくなります。
また、山の上の城を攻めるには斜面をのぼっていかなければなりませんから、進軍スピードは落ち兵士の体力も消耗しやすく、防御側が有利となります。また上から石などを落として防衛用の兵器とすることもできます。

こうしたことから、山城は防御に有利な要塞として建設されました。
普段は平地に住み、敵が来ると山の上の城に籠城する、という使い方がされることが多かったようで、長期戦に備えてある程度は生活ができるような設備が整えられていました。

こうした山城は飛鳥時代から奈良時代にもつくられていますが、有名なのはやはり中世から戦国時代につくられた中世山城や近世山城です。
山城は、戦国時代後期になると戦争が常態化したことや火縄銃の導入などにより次第に廃れていき、平地の平城が主流となりました。

江戸時代になり戦が過去のものとなると、当時の軍学者が城の分類を行い、このときに山城という呼び方が定着しました。
こうした山城の中でも、とくに優れた城を日本三大山城といい、岩村城、高取城、松山城がそれにあたります。

岐阜県・岩村城

岩村城は、岐阜県恵那市岩村町にある城で、霧が多いことから霧ヶ城ともいわれます。
この城は、遠山景朝により鎌倉時代中期に築かれました。
この遠山景朝は、養子縁組により血のつながりこそありませんが、あの「遠山の金さん」こと遠山景元の先祖にあたります。

岩村城は戦国時代までは遠山氏の支配下にありましたが、1571年に当主であった遠山景任が死去すると、織田信長から養子を迎えます。
しかし、その子はまだ幼少であったため、養母に当たる景任の夫人が女城主として城を守りました。

1572年、岩村城は武田信玄の配下である秋山虎繁に攻められます。
遠山方の奮戦により城はなかなか落ちず、結局は信繁が夫人を妻に迎えることを条件に説得することで、ようやく開城となりました。

しかしながら、1575年に長篠の戦いで武田家が弱体化すると、今度は信長により攻撃されることになります。
岩村城は落城し、虎繁夫妻は除名の約束を破られ処刑されました。
このエピソードが、女城主の悲哀として当地に伝わっています。

これにちなみ、地元では「女城主」というラベルの日本酒がつくられ、冬のレディースマラソンが開催されるなど町おこしの題材となっています。

織田方の城となった岩村城は、川尻秀隆の手により現在の形に近いものに改修され、その後城主となった各務元正により現代の城郭が完成しました。

その後、徳川家康の天下を取りの過程において、その庇護下にあった遠山氏の遠山利景が旧領に返り咲こうと攻撃を行いますが結局果たせず、松平家乗が岩村城の主となります。

江戸時代に入り2度城主が変わり、1702年に松平乗紀が城主となって以来、この松平氏の支配下のまま明治維新を迎えます。
明治時代になると、廃城令により石垣のみとなりました。
藩主邸跡には、1972年に岩村町歴史資料館がつくられています。

奈良県・高取城

奈良県高市郡高取町高取にあった城で、別名を高取山城ともいいます。
城内の面積は1万平方メートル、周囲3キロメートル、総面積約6万平方メートルに及ぶ、日本最大規模の山城として知られています。

高取城が築城されたのは、南北朝時代の1332年、南朝方だった越智邦澄によるものとされています。
戦国時代になり、織田信長の手により一度は廃城となりますが、本能寺の変以後に筒井順慶の手により本格的な山城へと改修されました。

1585年、豊臣秀長の配下である本田利久が城主となり、ほかに類を見ない広く豪華な山城へと改築しています。
関ヶ原の戦いのとき、当時の城主であった本田俊政は東軍についたため、高取藩の初代藩主となりました。

江戸時代に突入すると、本多氏は断絶、その後2度城主が変わり幕末を迎え、明治維新の動乱で攻撃を受けるなどしています。明治時代、高取城は廃城となり天守以外の建築物は売りに出され、その遺構が市内各地に残ります。

また、人里と離れた山中にある山城であったため人による破壊を免れ、石垣はほぼ完全に残っています。
ただし、樹木の生長や管理が充分でないところから、崩れている箇所もあります。
1983年、貴重な城郭資料であるとして国の史跡に指定されました。

岡山県・松山城

松山城は岡山県高梁市内山下にあった城で、別名を高梁城といいます。また、ほかの松山城と区別するため、備中松山城と呼ばれることが多いです。

松山城の起源は、1240年の秋庭三郎重信によるものです。1331年には高梁宗康の手により拡張され、以後城主が変わるごとに改修がおこなわれ、戦国時代にはさらに大きな城塞となっています。
戦国の動乱のなか、岩村城は最終的には毛利氏のものとなっています。

江戸時代になると、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏と城主がかわり、最終的には板倉氏が城主となり明治維新まで続きます。
江戸期には、山城では不便なため山の麓に御根小屋という御殿をつくり、そこで藩主が生活と政務をおこないました。この御根小屋がつくられたのが関ヶ原の戦いが終わった頃だというあたりに、その不便さがうかがえます。

どれくらい不便だったかというと、山の麓の御殿から城の本丸までは山道を一時間ほど歩かなければならないほどで、これでは役所を置くにしては遠すぎたといえます。
山城が廃れた理由がまさにこれで、軍事施設としては有用でも政治をする場所としては不向きだったというわけです。

明治時代になると、放置され荒廃してしまいますが、昭和初期に建物が修復され、旧国宝となります。
戦後、文化財保護法により天守などが国の重要文化財に指定、さらに国の史跡にも指定されます。
1994年に本丸の復元整備が行われ、かつての威容を偲ぶことができます。

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